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おらほの教会の歴史

2013年5月 3日 (金)

礼拝堂修復工事経過報告と感謝

 礼拝堂修復の経緯は20年前の朝、天井と壁が落ちた時にさかのぼります。以来、新築か修復かの議論を経て、ついに2001年5月修復着工、11月15日完成の運びとなりました。3年前、修復を考えはじめてから多数の教会建築懇談会と93回の建築委員会を経、修復を完成いたしました。
 新築のほうが割安で機能的にできる、という意見も出ました。しかし、私たちはこの礼拝堂の信仰的歴史とこの街の歴史を重んじ、地域の方たちから寄せられているこの教会への期待を知らされながら、結局新築ではなく修復を決断いたしました。この決断はこの地域だけに留まらず日本全国からの賛同者(献金者671口/2001年10月31日現在)を得、思いもかけない支えがあって、本当に奇跡的に早い時期に資金調達の目処もつきました。
 牧師先生はじめ、人生と信仰の諸先輩、また教会に関わってくださった多くの方々の祈りと支援とがあってこそ、この大事業が可能になりました。心から感謝申しあげます。
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2001年11月25日
教会建築委員会 委員長 田中秀雄

野口英世の歴史を刻む礼拝堂修復 工事完成感謝礼拝

ご出席の皆さま
 主なる神様の驚くべき恵みに心から感謝申しあげるとともに、この大きな業を支えてくださった皆さまに衷心より御礼申しあげます。
 信仰とは冒険である、と自らに言い聞かせながら教会員の皆さんには何かと心配をかけて30年余りが経ちました。この冒険には主なる神様という確かなナビゲーターが居られますが、苦しい思いが経済的な物差しや見える世界に縛られていると、“見えない大切なこと”に心が向きませんでした。
 その葛藤の年月は無駄ではありませんでした。信仰が試されたとき、祈り求める私たちに応えてくださった主なる神様の不思議な導きは、信じる喜びと予想を越えて拡がった交わり、友情に活かされる豊かさを育ててくれました。21世紀の初めの時にこの様な形で福音の業に用いられた私たちの教会が、この会津の歴史に関わることになったことを誇りに思います。
 2000年の教会総会で礼拝堂修復を決議した後、会津若松市の歴史的景観指定建造物の指定を受け、継いで登録有形文化財の登録を得ました。1911年築の礼拝堂の価値は無論ですが、これらの出来事に見えないところで尽力された沢山の方たちを忘れることは出来ません。ひとえに出会いの不思議さ、良きものを共に活かそうという一点に結ばれた真摯な思いが、この奇跡の事実として実りました。
 「思うにこれは賢明なことでした。新しいものは古くなりますが、古いものはもう古くなりません。そして古いものは何よりも価値あるものだから残ってきたのです」とは伊藤ていじ先生(建築史家)のお言葉です。古さを保ってと願いながら、いまこのようにピカピカの礼拝堂に感動をもって座っているのですが「新しいぶどう酒は新しい革袋に…」というイエス ・キリストの言葉どおりに豊かな働きに用いられるとき、時間と共にこのピカピカはやがて様々な痕跡に彩られてゆくことでしょう。その時、再び古くなったことを感謝しましょう。なにに用いられるかが問われます。
 今日、この歴史のただ中にご一緒できる幸いを感謝しながら、この礼拝堂をイエス・キリストと会津の皆さまに捧げます。
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2001年11月25日
若松栄町教会教会員一同

若松栄町教会のあらまし

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 「日本基督教会宮城中会は1894年8月、会津に伝道を開始することとなった。8月22日、藤生金六氏は若松に来て9月10日北小路35番地に一家屋を借りて講義所を設けた。これ実に若松日本基督教会の始まりである。教会員は2名であった」。

 若松栄町教会の最古の記録文書「信徒人名簿」には「1895年4月7日藤生金六教師より耶麻郡野口清作 受洗」と記されている。中山茂氏はその著書『野口英世』に次のように書いている。「会陽医院から北小路町を西へ歩いて四、五分の所にできた長老派教会の牧師、藤生金六牧師が布教の傍ら塾を開いて英語訳読および会話を教えていて、主に会津中学の生徒が通っていた。清作もここに通っていてその世話役の幹事として塾生一同を指揮していた」。また教会との関係では「清作が当時、クリスマスの手伝いを熱心にしていたとか、日曜学校のカードを配っていたとかいう話しが伝わっている」。野口清作はこの頃、山内よねとの恋愛で心痛む日々を過ごしていた。現在彼女の生家から若松栄町教会までが「野口英世青春通り」となっている。

 1896年、藤生金六牧師の病気により梶原長八郎牧師が就任。翌年、教会堂は旧馬場口、栄町小学校向かいに移転。現在の公民館東側になる。1901年、多田晋牧師が就任。この時代に教会は大きく発展した。この年2月18日仙台から錚々たる講師陣を迎え演説会を開催。徴集700余名と記録されている。更に「若松市の大挙伝道」についての報告は次の通り。「組合教会(現会津若松教会)と日本基督教会合同のうえ、7月25日頃より大挙伝道の準備に取り掛かり28日の午後には大塚山にて祈祷会を催し、帰途には広告を配布し、路傍伝道を試みたり。30日には日本基督教会で演説会。夜半12時に至りてようやく散会。聴衆は250名に近し」。「クリスマスは馬場口講義所にて挙行。集会者は300名。来賓は日曜学校生徒の父兄もしくは土地の名望家多く、従って大いに伝道の門戸が開けたのは感謝である」。多田牧師の在任中、教会の朝の礼拝は20名以上。夜は30名以上。日曜学校は80名と記録。

 1903年のクリスマスは市図書館内の公会堂に800名の人々を集めた。1905年11月、光晋牧師が主任者となり教会を南隣りの細堀医院北側に移転。光牧師は猪苗代、喜多方、会津坂下にも出張し各教会の基礎を築いた。

 1906年会津日々新聞は「日本基督教会の同情袋」のタイトルでこのような記事を残している。「光晋氏の牧する若松日本基督教会にて、この度市内及び付近の村落の窮民を救助せんため、教会名を染め抜きたる白地の手拭いを以て、七百余の同情袋を調整し、白米、味噌、切手を添えなお聖書をもその中に入れ、貧民に配布する事になり、その第一回を去る八日夜、同教会堂において実行せるが、とかく教会という古城にのみ蟄居しつつある基督教徒中この熱情を以て貧民救済の任に当たる一団ありとは、実に近代の快事と言うべし」。

 1907年、大音楽会、演説会、特別伝道集会、夏期特別伝道会が行われ、クリスマスは会津若松市の有名な行事となった。また会津出身の井深梶之助明治学院総長が久しぶりに帰省。教会で演説し大きな感銘を残した。

 1910年、クリストファ・ノッス博士が仙台の東北学院神学校から会津伝道のために定住。その鳥居町(現宮町)の宣教師館は現在穴沢病院長宅として残っている。

 1911年、この年に現在の礼拝堂が完成。記録はこう語る。「会堂落成。明治39年より光氏は宣教師ランペ氏と共に会堂建築の計画を立て、内外より資金の募集に従事せられしが同43年、宣教師ノッス氏若松に定住せらるることとなるや、着々実行の機運に進み、同年6月栄町に土地を購入し44年7月工事を起こし12月落成して27日に献堂式を挙行す。これ現今の会堂なり。当時会員数は90名にして、礼拝出席者は平均30名なりき」。この場所は材木置き場だった。現在の県立会津女子高等学校がこの1年前に建てられている。新しい西洋建築だったので仙台から大工さんたちが呼ばれた。会津の大工さんたちが毎日見学に来たと聞いた。新しい礼拝堂はクリストファ・ノッス博士の働きによって、多くの人々を引きつけた。

 ノッス博士は高久幸吉氏とともに会津伝道を開始し、毎年春秋に長期にわたる伝道旅行を自転車で続けた。ノッス博士との出会いが実に多くの若者たちの魂に深い感化をもたらし、彼等の多くが教育界に政治の世界によき働きを残した。ノッス博士はその後1934年に至る年月を東北の広範囲で伝道に捧げた。特に会津では小林憲氏が協力者となり、また会津坂下教会には小川永水牧師を協力牧師として働きを進めた。1934年クリストファ・ノッス博士はその生涯を青森で終えられた。時代は木山基代五郎牧師へ、伊藤嘉吉牧師へと受け継がれ、やがて田口泰輔牧師を迎えた。

 いわゆる大正から昭和の初期は宣教師の協力の時代と言える。シャフナー、ヌージェント、エンゲルマン各宣教師、そしてそのご家族たちは現在の穴沢病院となっている広大な敷地の一角をノッス博士と共に若松の多くの人々との素晴らしい出会いの場所としてくださった。それは西洋文化の香りであり豊かな人間関係であり、心温まる家族の姿との出会いであった。

 田口泰輔牧師から、米国留学より帰国した丹忠牧師へと引き継がれた教会はますます活発な集会を生み出した。しかし、世界は激しく戦争の深みへとのめり込んで行く。試練と苦難の時代を迎える。国家の宗教団体法によってキリスト教諸教派は日本基督教団に統合された。エンゲルマン宣教師の戦争直前の生活は苦渋に満ちたものであった。宣教師は交換船で帰国を余儀なくされた。戦争中の礼拝は3人、牧師夫妻、そして監視のための特高(特別高等警察)。牧師たちはしばしば警察、憲兵隊でのスパイ容疑などの取り調べを受けた。

 1943年、東京女子大学の学生20名が石原謙学長と共に若松栄町教会礼拝堂に疎開。東京女子大学会津分校が一時誕生した。このため、礼拝堂は接収を免れた。戦後のキリスト教ブームの華やかな時代が過ぎ、丹牧師は厳しい生活の中で地道な教会形成のご労苦の日々が続く。40年の長きにわたる牧会生活を終えられたご夫妻は1963年、80才で静かに引退の時を迎えられた。

 その1年後の1964年猪苗代町の川桁伝道所から高橋力、高橋真美両牧師が招聘された。静かだった若松栄町教会が賑やかになった。1967年に「栄町教会ベビーホーム」が誕生。共稼ぎの高校の先生夫妻の赤ちゃんを迎えて一人から始まった働きは、会津で最初の0才から3才までの乳幼児保育であった。1976年には会津での最初の障害児の保育を始めた。現在は子どもたちを10人の保母がお世話している。1968年、国際協力伝道計画により、米国オレゴン州からコーツ牧師夫妻と長男ジム君を迎え、60〜70名の中高生たちとの集会を重ねた。

 青年会がハワイ島ヒロの教会の150年祭に招かれ、ホノルルのカワイオハオ教会の大礼拝堂で歌ったのはもう20年前。その他、毎年春夏には海外諸国との交流が続き、あらゆる年代のツアー、出会いの経験が深められた。中高生サイクリンググループもマウイ島のハレアカラ火山の天辺からのツーリングを楽しんだ。

 会津農村伝道センターのクレーラー宣教師ご夫妻の大きなご支援を受けつつ、英会話クラスが続けられ、次第に専任の語学宣教師の必要が語り合われた。祈りが聞かれて、1976年、カリフォルニアからの専任教師を迎えて「会津若松イングリッシュ・アカデミー」を開設。これも会津で最初の英会話スクールとなった。今年は幼児から熟年までの160名の生徒とカナダ人講師と6人の日本人スタッフを擁している。

 1985年、片岡謁也副牧師が加わった。様々な活動が展開され、賑やかさを通り越した教会になった。音楽伝道。そして中高生たちを中心にした年2回のロックコンサートには約200人の若者たちが参加。コンサートの模様は「ズームイン朝」等で全国に放映された。日曜日の朝9時半からの中高生礼拝には15人程が出席している。

 何にもまして教会が大切にしているのは、言うまでもなく主日礼拝である。午前10時半からの礼拝。クリスマスイブは殊に美しいキャンドルサービスが印象的。礼拝を豊かな賛美で捧げるべく百周年の記念としてアーレンオルガンを購入した。創立記念礼拝にはその感動の響きの中で190名のハレルヤコーラスが歌われた。

 日曜日の教会学校は幼児、小学生の教会。その前に市内の2コースを子どもたちのための教会バスが回っている。ベビーホームから育った子どもたちが教会学校に、イングリッシュ・アカデミーに、ピアノ教室にと絶えず教会と繋がっている。教会の庭はバスケットボードに群がる子どもたち、中高生で毎日賑やかだ。

 青年会、婦人会、壮年会など様々なグループが活動している。いくつもの家庭集会では日常的な問題から聖書を学んでいる。ここから多岐にわたる社会活動が生まれてゆく。「創立百周年は新会堂で」と語り始めてから10年近い。5年前に図らずも隣接の土地を購入するという祝福のハプニングが起こり、大きく広がった敷地に改めて教育館、会堂の建築計画を練り直しつつ第2世紀を歩み始めた。